.その他

番号は便宜的なものです。

 中高の教員免許を取得する為に必ず必要な介護等体験。2日間は特別支援学校、残り5日間は特別介護施設での研修となる。この7日間を終えて思う事、考える事は多くあった。

 まず、2日間の特別支援学校での初日、私はどうしたら良いのか戸惑うばかりだった。これまでの生活を振り返っても、私はこれまで「障がい者」と触れ合う機会というのは無かった。ましてや「特別支援学校」には行った事がなかった。正直、初日は教職の一貫だと分かっていても足が竦んだ。私が行った教室では、そこまで重度の生徒さんはいないものの、やはり、何を話しているのかうまく分からない、聞き取れない生徒さんは数名いた。しかしながら、全くもて一見は、何一つ変わらない、そして会話もスムーズに弾んだ生徒さんもいた。何よりも驚いたのが、各クラスに2名いる担任の方が生徒さん一人一人に対して日誌を丁寧に、細かく書いていたことである。通常の学校であれば、何かの提出物の時に少し、先生のコメントが来る程度で、毎日先生が日誌に書いてくれることはない。一人一人にあった課題まで出していたのには、ただただ感心するしかなかった。

 私たちは一見、「特別支援学校」と聞くと、「あー、ちょっと普通の学校では厳しいのかな」と思ってしまう。それは、実際に聞いたことはあっても、足を踏み入れたことはないからである。教職を通して、入れたことは貴重な機会であった。

 特別支援学校は、ある意味では、職業訓練場のようであった。通常、私たちは高校を卒業する時、いくつかの選択肢があるにせよ、大体が大学進学することが多い。しかし、彼らの学校は、生徒自身の自立も支援していた。私は、高校生の時、あたかも当たり前のように大学へ行くことを考えていた。見た目だけでは、判断ができない障がいを一般的に、公共利用機関等で判断するのは、ほぼ不可能である。彼等は、障がいがあれど、それを如何に振る舞うのかまで考えなければいけないのかと思う心が痛んだ。

 私は、何故教職にこの介護等体験が必要なのか、実際に大学の職員の説明では、あまりに抽象的すぎて曖昧にしか消化できなかった。が、実際に体験してみると、軽度の障がい児の場合、自分が担当する教室に存在する可能性がある。この場合の、クラスの特別活動を考えなければいけないなと確認が出来た。障がい児を含めた”including”の授業をするのは、多様性を受け入れるという意味で健常児童にも必要である。

 次に、5日間の介護体験である。まさに、このレポートを書いている今、私は介護等体験の4日目である。1日目は、ショックで夜ご飯が食べられなかった。というのも、高齢者と言っても普段私たちが目にしているような高齢者ではなく、痴呆や認知症、自分の力では歩けない、トイレに行けないという現状を目の当たりにして言葉を失ったからだ。遅かれ、早かれ、自分の親にもその時は来る。その時、介護が長引けば肉親とはいえ、憎しみなどの感情が芽生えてしまうのではないかと怖くなった。実際に、介護施設の職員の対応は第3者の学生から見ると、それが正しいのかもしれないが、イライラして必要最低限の会話しかしていないように思う。そして、私たち学生に対してもまるで透明人間のような扱いだった。「忙しい」で済まされるような場で、学生に5日間過ごせというのは心身共に辛い1週間である。特別支援学校同様、こちらも2日間で良いのではないかと思う。3年生のこの時期に1週間、学校を空けるのは辛いものがある。そして研修生とは名ばかりで、実際は介護の人員が足りてないが故の雑用をやらされるのである。介護施設によっては、職員の対応が変わるのかもしれないが、現在私が1週間体験をさせて頂いている施設は決して、良いとは言えないように思う。

 5日間もの介護体験は学生にとって大きな負担である。私は、教職の単位やこういった研修等に疑問を抱くことが多い。それは、本当に必要なのか分からないものが多いからである。そして、期間が長いのも学生の勉学の時間に影響を与えていることを踏まえ、訂正されることを願っている。 

 

 私は、高校三年生の時にお世話になった世界史の先生との出会いから影響を受け、社会科の教員という視点に興味を持ちました。「研究活動」は、例えば歴史や教育そのものについて探求する意義を持つと思うのですが、一方で、その現場での学びというものも大切な役割を持っていると感じています。歴史ほか世の中の仕組みを解く社会科では、人の生きる世界の普遍的価値観について、様々な視点からアプローチすることができ、また、その考える時間を同じ空間にいる人々と共有することが出来るという点に魅力を感じています。

 社会科は、地理や歴史、公民などスコープはそれぞれ違っても、主に身近な具体的問題から実際の社会生活に関わる事柄を多く取り扱う性格を持っていると思います。しかし、中学校・高校の教室内での限られた授業時間の中で、暗記だけに留まらせずに、実際に身近な問題として生徒に関心を持続させることは、なかなか難しいとも思うのです。

そのためにこそ、教師の余裕ある真面目さに加えて、広い視野と柔軟な発想が求められると思います。高校三年生の時にお世話になった先生から学んだことの1つに、妥協のない探究心の継続が挙げられます。つまり、既存の概念に囚われることなく、自ら学び続けようとする姿勢です。毎回自身で編集した資料をもとに熱心に教鞭をとられていた、その先生の「本気に応えたくなる授業」に少しでも近づくことができたら、と思います。学びに対する謙虚さを大切に、活動全体を通じて生徒に良い変化を導き出せる教師を目指したいと思います。

 私はもともと、「教育とは…」と原理を語る以前に(もちろん、それも大切と思うのですが)、現在の教育の現場が直面している課題について、とても関心がありました。中学・高校と授業を受けた中で、社会科の印象が強く残った理由には、その内容が教室という空間内に留まらずに、身近なところから、社会的あるいは国際的な価値観について考える機会であったからだと思います。多感な10代は、徐々に個人の自律、社会の中における自分のアイデンティティの確立が始まる、「葛藤」の時期であると思います。恐らくは、学校教育の中でも社会科における学習成果が個人の価値観に影響する部分が大きくあり、そのために社会科教育のあり方が問われ続けているのだろうと考えました。

3年生の前期に2日間、特別支援学校へ介護等体験に行ってきた。介護等体験に行く前はガイダンスをいくつか受けて心の準備をしていたが、とにかく不安だった。そして、なんで教職に介護等体験が必要なのだろうと疑問に思っていた。

 特別支援学校は、障害のある高校生がいる学校だ。今まで障害のある高校生には会ったことがなかったからどんな感じなのかまったく想像がつかない状態で始まった。私は高校1年生のクラスに配属されてそのクラスの授業に生徒と先生の間のような感じで参加することになった。

 最初は、みんな障害があるからすごく自由にやっているのかなと想像していたらそんなことはなかった。少人数だけど、生徒はみんなちゃんと椅子に座ってみんなで一緒にひとつのことを勉強していた。算数も国語も美術も音楽もみんなキチンと真面目に授業を受けていた。横浜に社会科見学に行ったときの報告会があって、パワーポイントで写真を見せながら発表している姿は普通の高校生のように喋っていた子も大勢居た。私は障害のある人のことを本当に上から見て勝手に同情していたんだなということに気がついた。それに気がついてから、生徒に変な気を使わないで普通に接することができて生徒と授業をするのもお話するのも普通に楽しかった。

 特別支援学校で気がついたのは、生徒の障害の度合いが本当に様々だなということだ。一見どんな障害があるのかわからない子も居れば、もちろん体つきになにか障害がある子も居た。一番印象に残ったのは話してみてもどんな障害があるのかわからない子だ。きっとなにか障害があるのだろうけどわからなくて、もしかしたら世の中には障害だと気づかないで公立の中学校に行っている子供がたくさんいるのではないかと思った。自分の子供に障害があると信じたくない、認めたくない、という親が居るという話を聞いたことがある。でも、そんな時に一番辛いのは子供の方なのは間違いない。なにかしら障害のある子は特別支援学校に行ったほうがいいと思う。特別支援学校の生徒はみんな優しくて明るいとてもいい子で、学校生活が楽しそうだったからだ。みんな私と仲良くしてくれて嬉しかったし、たった2日間だったけど仲良くなれた生徒との別れはすごく悲しかった。

 介護等体験は、教育の現場や介護の現場に実際に触れてみることが目的なのだと思う。だから、なにか新しい発見をすることやその場の現状について知ることが大事だ。私は、特別支援学校について全く知識がなかったからその現状を知ることができ、しかも自分のなかで特別支援学校がとてもいい印象に変わった。そして純粋に楽しむことができた。高校生に戻れたような感覚も楽しかったし、新しい友達ができた気がしたのも楽しかった。怖がらずに知らない世界に飛び込むことは意外と簡単なのかも、とこの介護等体験を通じて思った。いろいろなことを知ることができてしかも楽しかったなんて本当にいい経験になった。介護等体験は行く価値のあるものだと改めて感じている。

 私は今、カウンセリングについて興味をもっています。授業で少しだけカウンセリングについて学んだのですが、その中でも話の聞き方について印象に残っています。それは、ちびまる子ちゃんの中に登場する、ともぞうじいさんのように相手の話を受け止め、頷きながら聞いてあげるということが大切だと聞いたからです。

実際に相手の話を相槌もいれず、頷きもせずに聞く、逆に私がその相手の立場になってみるという体験をしました。私たちがいつも何気なくしている相槌や頷くことは、こんなにも意味があることなのだということが、身をもって感じることができました。相手が何度も使う言葉を繰り返すというのは、それが相手にとって大切であり、重要な言葉である可能性が高いので、言葉を変えずに繰り返すことによってニュアンスを味わうことが重要だとわかりました。そして「頷く」という動作は、自分の話を聞いてくれているのだと話す人に安心感をもたすらことができるということ、聞く側が相手の話を自分の中に受け入れる手段として、とても大切なことだということに気が付くことができました。私が実際に相手に相槌も、頷きもされずに話続けたときは、とても悲しい気持ちになりました。きちんと聞いてくれていないように思い、不安な気持ちでいっぱいになり言葉がうまくでてきませんでした。逆に自分が聞く立場になってみて、頷くことをしないのはとても難しいことであり、あまり話の内容が頭に入ってこなかったように思います。実際に自分自身が体験しなければ、あまりピンとこないことはとても多いのではないか、ということに気がつくことができました。そして、ただ話を聞くだけでは、自分の中に相手の話が入ってきづらいということがわかりました。この話の聞き方はこれから先も私の中に残っているでしょう。相手の話を聞くときには、その時の自分にできる精一杯の応答をして、相手にとって近い存在になれるようにしていきたいと思いました。もっとこれから、たくさんカウンセリングについて学び、様々なことを吸収したいと思っているので、頑張っていこうと思います。

―教師になったら大事にしたいと思うこと―

  子ども一人一人と接したことそのものが貴重な学びの機会とし、いろんな場面でそれらの学んだことを活かせるようにしたい。というのは、一期一会ということわざがあるように、人との出会いはその一回の出会いでしかないというようなつもりで人と接し、その出会いの場、接している時間の一時一時を大切にしたいと思うからである。また、一つの授業をもう一度やろうとしても、同じ授業を厳密に再現できるのは難しいため、授業もその一回しかないのだという気持ちで、大切にしていきたいからである。

私は今まで、学びというのは子どもがするものであると思っていたが、教師も子供から学ぶことはいくらでもあるし、日々、子どもたちの言動や行動から学んでいるのだということを知った時に、上記のようなことを大切にしていきたいというように思った。

知識面では、うつろいやすい社会情勢に敏感であるよう、ニュースを豆に見たり、新聞をきちんと読むなどして、常にアンテナを張っていたいと思う。子どもたちの意見や考えを聞きたいという面では、そういった時事問題などを授業の場で取り上げてみたりもしたいが、子どもたちに対して自分から自分の意見を述べるということは避けたいと思う。というのは、私がそうであったように、先生の影響力は大きいので、子どもたちを洗脳してしまうことのないようにしたいからである。また、大学生になって痛いほどわかったように、記憶も薄れていってしまうので、社会科の勉強を教員になってもきちんとしていたいと思う。当たり前のことではあるが、それをしっかりとできる教員でありたいと思う。これらが、私の大切にしたいことである。

私にはどうしても忘れられない出来事がある。お世話になった、母校の数学の先生が自殺したのである。その先生が担任した生徒たちはやんちゃだったらしく、手に負えない状況に追い込まれうつ病になってしまったのだ。しばらく休職した後事務職員として復帰し、翌年からは教員として復職することが決まっていた。みんなでその先生に会いに行くのを楽しみにしていた。私はとある女性教員の自殺問題を思いだした。高校生の時にニュースで報道された、小学校の女性教員の自殺である。回収したテスト用紙には生徒から心無い言葉を書かれ、家庭訪問をして母親にその事を伝えても「あなたが悪い。」としか言われなかったのだそうだ。

こういった教員の自殺はなぜ起きたのだろうか。どうしたら防止できるのだろうか。第一に、会議や学年会などで生徒の情報を共有し、担任だからと言ってその人一人に責任を押し付けるのではなく、皆で生徒全員を共有するという姿勢が大事であると思う。また、会議や学年会などで報告する事を義務づける事も大切だが、そもそも普段から教員同士のコミュニケーションを密にしておくべきである。学年主任や職員室の隣の席の教員でも良い。積極的に様子を聞く等の働きかけが、相談しやすい環境を作り出すのだと思う。そして、当事者の教員もひとりで悩まずに積極的に相談するように心がけるべきであると思う。第二に、保護者との連携である。子どもの教育は、学校ばかりで行われるのではない。世間で起きている学校の実情などを実際の新聞記事などを交えながら話し、自分たちの学校でそういった事が起こらないように是非保護者のご協力を仰ぎたいという旨を伝えれば、保護者の方たちも他人事ではないので、積極的に協力をしてくれることだろう。協力を仰ぐには、普段から信頼関係を築く必要がある。生徒たちと比べて圧倒的に接する機会は少ないが、学級だよりや保護者会などの場を利用して、積極的に関わるべきであろう。

教育現場は忙しいとの話をよく耳にする。同時に、職場での孤立も問題になっている。忙しいからこそ孤立して仕事をやっている場合ではない。様々な事象が多様化し複雑化している現代社会だからこそ、一致団結して連携体制をつくるべきである。

 私は大学1年生の頃から、地元にある個別指導塾で非常勤講師を行っています。指導する際には、なるべく子どもが理解できるように、なぜ分からないのか、どうすれば印象に残りやすいのかを考えるようにしています。単純に公式や語句を教えただけでは印象に残らず、子どもの記憶からすぐに消えてしまうと考えているからです。そのため、子どもの記憶からすぐに消えてしまうような授業にならないよう、公式を教える際には例題をいくつか出して定着を図り、語句を教える際には語句にまつわる話を盛り込むようにしています。

 このことを、教師になってからも続けていきたいと思います。教師になると生徒の将来を思うがゆえに、受験勉強に特化した面白みのない授業を展開していってしまう可能性があるのではないかと思います。そのような授業を展開することがないよう、生徒主体の授業を展開していきたいです。生徒が本当に理解をし、学ぶことが楽しいと思えるような授業を展開していくことができれば、自然と学びに対する主体的な姿勢も生徒たちに培われていくのではないかと思います。

 そこで、授業に向けて作成する指導案や板書計画に多くのネタを書いておき、雰囲気に応じて小話が提供できるよう、事前の調べ学習に力を注いでいきたいと思います。「10個話を用意しておいたら、実際に活用できるのは1個の話」という言葉をよく耳にしますが、その言葉のように多くのネタを用意しておかなければ1つの話もできないと思います。またただネタを探すのではなく、生徒の前で話すのであれば、正しい知識に裏打ちされているものでなければならないと考えているため、事前の調べ学習には多くの時間をかけていきたいと思います。この考えを教育実習の際にも生かし、生徒のためになる授業になるよう、頑張っていきたいと思います。

 

 わたしが教師を目指す理由、それは教師と生徒という人のつながりに大きな喜びを感じるからなのだと思います。そう感じ、教師を目指すようになったのはわたしが高校生の時です。わたしは倫理の授業をどの教科よりも熱心に勉強をしていたので、テスト前になるとノートのコピーを頼まれたり、わからないところがあると質問を受けたり、友だちのために倫理テスト対策教室をするほどでした。そして、その倫理教室の中で、自分のノートや教科書などを参考に友だちに説明をして、「わかった!」とか「なるほど!」という声が聞こえるたびに、わたしはこの上ない喜びを感じたのです。自分が伝えたかったことを生徒が理解してもらえたお互いの喜ぶ姿はとても幸せな光景で、それを何度も経験していくうちに、テスト前だけではなく、もっとたくさんの人とこの喜びを共有したい、いつかわたしも、あの立派な倫理の先生のようになりたい、そして神秘的な、あの職員室の中でお仕事をしてみたい、と憧れの気持ちを抱くようになったのです。きっと生徒の時は知らなかった努力や苦労がたくさんあって、憧れる気持ちだけでは教師という仕事をすることはおそらく難しいことだと思いますが、教師と生徒という人のつながりに大きな喜びを感じ、これを原動力にすることで、わたしも素敵な教師になっていくことができたらいいなと考えております。