| 神田から見る富士 |
| かんだ会発行季刊誌「かんだ」第162号(2001年3月30日発行)掲載原稿 図が数点ありますが、省略しています。 |
| 神田といえば、定番の“なぞなぞ”がある。「神田はアルファベット2文字で表現できる地名です。何と何ですか」。 私は高校で地理を担当しているが、生徒が眠そうになるとこれを“出題”することにしている。答えを告げると(注1)、「なんだ」と言うので「かんだ」と返して落ちをつけている。冒頭から脱線してしまった。小文のテーマは「神田から見る富士」であった。 今どき、神田から富士山が見えるのか、と思われる方が多いだろう。しかし、地形的には東京の台地は、ほぼ全域が富士可視圏であり、建物がなければ、どこからでも富士を望見することができる。神田も同様である。 浮世絵で有名な例を挙げれば、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の「東都駿臺」がある。MOA美術館編集・発行の『葛飾北斎 冨嶽三十六景』(一九八二年)は次のように解説している。「駿台とは神田駿河台のことで、神田ではここだけが高台であったため、富士がよく見えたらしい。この辺りは武家屋敷町で、昔駿府城在番衆に賜った地なので、この名が生まれたという。図は、坂道の途中から眺めた富士で、いかにも台地らしい風景である」。 駿河台は東京から富士を見るポイントの一つで、永井荷風の『日和下駄』にも「夕陽 附富士眺望」の一章に登場する。また、一九二六年に来日し、多くの画文を残し東京の再発見につとめたフランスの詩人・学者ノイエ・ヌエットは『東京のシルエット』(法政大学出版局一九七三年)の中で、駿河台から見た富士を描いている(藤本一美「北斎・広重・貞光の見た富士」『富士山展望百科』実業之日本社に説明がある)。 葛飾北斎とくれば安藤広重はどうだろうか。彼も多くの富士を描いているが、最後の作品で最大のシリーズでもある『名所江戸百景』には「神田紺屋町」がある。 東京は台地と低地の街である。となるとそれをつなぐのが坂道でり、西〜南を向く坂はみな「富士見坂」であった。山手線内には一八の富士見坂があるといわれるが、その一つが神田小川町にある。今はもちろん見えない。左右の稜線がすっきり見えた唯一の富士見坂は西日暮里であったが(注2)、昨年マンションが建設され、左側が失われた。「守る会」ができ、マスコミでも大きくとりあげられたのでご存じの方も多いだろう。この小川町の富士見坂はいつ頃まで見えていたのだろうか。地味な坂であるだけに、ここが「富士見えず坂」になっても、残念ながらほとんど注目を集めることはなかっただろう。 富士を隠す建物は、皮肉なことにそこに上がれば格好の富士見展望台になる。景気は一向に上向かないが、高層マンションの建設がラッシュで、上階から売れていくと言われる。その中でも富士の見える区画は一番人気だろう。私は神田地区の建物の様子には疎いが、文京区役所シビックセンター展望室のように、自由に上がれ富士山の展望を楽しめる施設はないだろうか。ビルから、ビル越しに眺める富士山は、好むと好まざるとに関わらず、都市化の中の風景の象徴といえるだろう。 ところで、富士展望マニアの間で近年話題になっているのが、「ダイヤモンド富士」である。これは富士山頂に太陽がかかった状態を指しており、東京方面からは日没時の「沈むダイヤ」になる(富士の西側では日の出時の「昇るダイヤ」である)。太陽は日々沈む位置を変えるので、その場所からは年に数日しか見ることができない。パソコンソフトを使えば、その時刻を求め、シミュレーション画像も描くことができる(注3)。図は、神田小川町の富士坂から建物がないとした場合の図である。二〇〇一年は二月三日一六時五八分と一一月七日一六時二八分である。神田地区なら日時は同じになるので、富士の見える場所(建物)をご存知の方は、一一月に是非そこからご覧になって頂きたい。雲に隠されればもちろんアウトであり、しかもせいぜい二分足らずの天体ショーである。それだけに見えた時の感激は大きいだろう。 実際の富士が見えにくいとなると、今はこのようにパソコンソフトによるシミュレーションを楽しむことができるが、かつてはそうはいかなかった。そのかわりミニチュアの富士を作る人達がいた。いわゆる富士塚である。ホームページを検索すると「東京の富士山(1)」と題して、写真つきで解説をしたサイトを見つけることができた(注4)。それによれば、神田地区にも一つある。神田須田町にある「神田柳森富士」(柳森神社)がそれである。 一九三〇年に再築された高さ3mの溶岩製の富士である。富士塚の中には、本物の富士と同様に、七月一日の山開きの日に一般公開するものもあるので、「東京で富士に登る」企画も楽しいかもしれない。 見る富士というと忘れてならないのが、銭湯のペンキ絵の富士である。その絵を描ける職人が数少なくなっていることもあり、しばしばテレビでも取り上げられる。それと神田とがどう関係があるかというと、その第1号が、神田にあったのである。これまた幾つかのホームページに記してある(注5)。 それらによれば、最初に始めたのは、神田猿楽町にあった『キカイ湯』で、大正元年のこと。もともとは子ども達を喜ばせようとして、画家に依頼して描いたものであるという。それが評判になり、東京中の銭湯に広まっていった。その『キカイ湯』は一九七一年に廃業し、今はビルになっているが、入り口には、ペンキ絵発祥の地であることを示す碑が一九九二年に作られている。 一九九六年に調べた人によると、都内約一四五〇軒の銭湯の内約四五〇軒にペンキ絵があったという。昔ながらの銭湯がどんどん姿を消しているが、神田地区の銭湯では、今も富士を眺めることができるだろうか。 眺める、ということだけに絞っても富士は沢山の話題をもっている。沢山のアプローチがある。神田の街を巡れば、思いがけないところで、思いがけない富士に出会えるかもしれない。 注1 かんだ=KANDA KアンドA つまりKとAの2文字である! 注2 護国寺の富士見坂もごくわずかであるが、見えている。ともに、『富士山展望百科』に写真がある。 注3 フリーソフト(無料で使える)の景観描画ソフトとして定評のある「カシミール3D」を使用。データは国土地理院刊行の数値地図。 注4 「東京の富士山(1)」 http://www3.freeweb.ne.jp/photo/matsumo/fuji-san/pageco1.htm 注5 例えば「風呂屋の富士」 http://mecenat.bento.ne.jp/machida/sento/sento1.html |